イラスト 佐久間あすか公式HP 


「集(しゅう)」
■「時間」「空間」「素材」

 「集(しゅう)」とは、簡単に言いますと「時間」「空間」「素材」という3つの集合体であり、その集合体は私自身であってそれこそが私の制作なのです。それは自分の日常空間に自然と紛れ込んでいるものであり、私が勝手に「集(しゅう)」と読んでいるのです。
 私の表現したいものは、誰も知らない真相や社会問題ではなく、ただ純粋に自分自身の事なのです。私は、自分を取り巻く生活空間や環境、暮らしている時間、つまり、私自身のありのままを全部さらけだした表現がしたいのです。
 私の制作は、1日や2日でできるものでも、1ヵ月や2ヵ月で出来るものでもありません。私自身を表現するのだから、一生かかります。制作とは継続なのです。その積み重ねの時間によって自分が成長していき、と同時にその造形物も大きくなっていくのです。そして継続することによって、一生涯でたったひとつの造形物が出来れば満足なのです。
 私は、自己が生きていく時(時間)とその過程で生じた物体(素材)とそれを取り巻く生活環境(空間)が揃って、はじめて自分という人間(制作物)が形成されていく気がします。同じひとりの人間であっても、子供の頃からまったく変化を遂げない、造形物を制作している人などいないと思うのです。そしてそれは、時間や空間によって絶えず人間(制作物)は変化を遂げている証拠なのです。
 「集(しゅう)」とは私の制作においての共通の主題です。それは、ただ造形媒体である素材の集積だけではなくて、私自身が存在している日常生活の時間や空間の集積でもあるのです。ある一点を指す過去の集積でも、未来の集積でもなく過去から現在への継続的集積で、また、その日々の時間を過ごした日常的生活空間の集積でもあるのです。私の制作はこの「素材」「空間」「時間」という3つが集まった時、「かたち」になるのです。

■かたち
 私の制作は、「流れ」や「渦」を模ったものが多いのですが、何故かと言うと、一つのテーマを何年も継続して制作していると、自分の時間の経過(時間)が川の流れ(かたち)のように感じてしまう事があるのです。
 水辺を散策することが好きな私は、よく川の流れを観察します。水には色々な表情があって、淀んだり渦巻いたり、静かに時には荒々しく流れたり・・・様々です。文学作品の中でも、「行く川の流れは絶えずして・・・」や「川の流れのように・・」など「流れ」は人生を例えた表現に使われます。流れの一種「渦」も一緒です。比喩的に表現すると、「流れ」や「渦」はまさしく、私達の暮らす人間社会の様に見えるのです。
 川の流れは一様ではなく又、絶え間なく変化し流れて行くのです。静かで清らかに時には荒々しく情熱的に日々流れて行くのです。 私の制作もそうありたいのです。ただ淡々と造る日もあり、また投げやりな日もあり、細々ながら途切れることのない制作が、いつの日か大河のように流れる大きな存在になることを願っているのです。

  ■私から生まれる素材
 私は制作するにあたってこだわっている事があります。それは、制作に使う素材は私自身が日常生活で出したゴミと決めている事です。
 ゴミと言うと聞こえは悪いのですが、とても魅力の詰まった逸品です。新聞、ティーパック、靴下・・・・etc。素材は様々、表現方法も決まりはありません。
 しかし、生活ゴミは制作するにあたり、決して使いやすい物ではなく、むしろ使いづらい物です。私が、あえて扱いづらい素材(生活ゴミ)を使って制作するのには訳があるのです。それは、古代遺跡のひとつに貝塚と言うのがあります。これは水辺に住んだ古代人が、食した貝殻を累積して出来た生活遺構です。貝塚は貝殻ばかりではなく、土器や石器、骨など生活ゴミが捨てられています。言わば古代人のゴミ捨て場なのです。そこに捨てられたゴミを考古学者達は調査して、古代人の文明の発達や生活環境などを推測、研究しているのです。古代人にとっては、余計なお世話と言うかプライバシーの侵害も甚(はなは)だしいですけどね・・・・。でも興味深い事に、ゴミはそれを出した人の生き方をさらけ出すサイコーの素材なのです。
 私にとって制作に生活ゴミを使う事は、私自身をありのままさらけ出す一種の表現であり、私を知らない誰かが、または百年後の誰かが私の制作を見て、言い換えると、私のゴミを見て考古学者が古代人を語るように、私を推測してもらえたらと思うと、今も胸の鼓動が止まらないのです。
 では、私の制作を見て私を推測して見て下さい。



Asuka Sakuma's Home Page
佐久間あすかのHP
E-mail:asuka0390@hotmail.com